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ビニールを突き破ったサツマイモの芽

2022年2月の下旬に台所で気が付かないうちに芽をはやしていサツマイモを発見!!

このままではいけないと思い自宅のプランターに植えました。

そして、5か月経過後がこんなに勢いよく育っています。

来月の下旬に収穫したいと思います。

 

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平塚南口 海の讃歌 人魚像

私の住んでいる、平塚駅南口にある人魚像です。

真夏の暑い日は少し涼しげになるので、助かっています。

以下、タウンレポートからの抜粋です。

人魚像は1963年3月、「青年のあこがれのシンボルが躍進途上の平塚市にふさわしい」として、当初は平塚駅北口ロータリーに建てられた。彫刻は文化勲章受章者で熱海市名誉市民の澤田政廣(せいこう)氏が制作し、当時の戸川貞雄市長が『海の讃歌』と命名した。

 当時、人魚像は平塚駅利用者がロータリーに降り立った時に顔が見えるよう南を向いており、線路を隔てた海の方向を見つめていたという。しかし70年5月、駅広場中央地下道開通に伴い現在の南口駅前に移転。駅利用者の方向を向かせると、自ずと海に背を向けるかたちになった。

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キン肉マンへの道 Vol.3

中学時代Vol.3

 

中学二年生の時に父が亡くなり、辛い日々の中、いっそ中卒で就職してしまおうかと思いました。

受験まで後一年と2ヶ月、悩んでいる時に、母からどうしても高校だけは卒業しろと懇願されました。

そこでやっと少し頑張るかという前向きな気持ちになりました。

 

しかし、それまで投げやりな気持ちで毎日を過ごしていたので、真面目に勉強もせず、中学の先生に反抗的な態度を取っていました。

そのせいで内申点が低く、都立高校だと希望する高校には点数が足りなかったのです。

とは言え、私立学校だと母の負担が増えるのを懸念していました。

ところが母から、好きなところへ行っていいと言われ、行きたかった明大中野高校を目指すことにしました。

一気にモチベーションが上がったのはいうまでもありません。

 

けれども、自分で勉強する習慣もついておらず、良い塾も見つけられず困っていました。

 

いよいよ受験日が迫って来た1月4日に、偶然、良い塾の先生を友達に紹介されたのです。

先生から勉強方を教えてもらい、励まされ、そこから頑張ることが出来ました。

そして運良く志望校に入学できたのです。

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キン肉マンへの道 Vol.2

中学時代Vol.2

 

持病の喘息も良くなり、水泳部の練習に精を出し、タイムも伸びてきて、来年の大会を楽しみにして陸トレも頑張っていた10月の初めことでした。

 

突然、母から東京に引っ越すからと言われたのです。生まれてからずっと暮らして来た湘南辻堂を離れて、東京に行くだなんて、絶対に嫌でした。

弟と話しても不安でならない、友達に相談しても、何で?何で?と晴天の霹靂でした。

 

しかし、いくら弟と二人で東京には行きたくない、と訴えても聞き入れて貰えず、泣く泣く辻堂に別れを告げたのでした。

 

そして東京に

 

今では、話の語尾に”ジャン””ダベ” など東京でも良く使う言葉になりましたが、当時は東京のクラスメイトは誰も知らない言葉で、ドン引きされました。

そして転校1日目から(イナ)というあだ名がついてしまいました

この意味は何と、田舎っぺのイナということで、この不名誉なあだ名は1年間続きました。

 

そして、もう一つショックなことがありました。

辻堂で頑張った水泳を、転校先でも頑張ろうとしていたのですが、なんとその中学には水泳部がなかったのです。

 

更に大きな不幸が襲ってきました。

翌年の12月に、闘病していた父が他界したのです。

 

その後母から伝えられたことは、父は末期癌でしたが、仕事人間だったので、せめて最後まで仕事をさせてあげたい、その為に東京の父の会社のそばに引っ越して、少しでも楽に通勤させてあげたかったとのことでした。

 

病名を私たち子供に告げたら、いつポロッと口が滑ってしまうかもと思い、言わなかったそうです。

 

父は、長男の私には特に厳しく、よく拳骨を食らいましたが、どんなに叱られても私は父が大好きで、永遠のヒーローでした。

 

私の胸の中にはぽっかりと穴が開き、悲しくて悲しくて死んでしまいたいとまで思い詰めました。

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キン肉マンへの道 Vol.1

誕生から小学校卒業まで

 

1957年7月1日に神奈川県藤沢市に3950gの大きな男の子が誕生しました。

その子、つまり私は、その後スクスクと育ち、保育園で一番身体が大きな健康優良児となりました。

いたずらっ子だった私は、勝手に保育園から脱走して、隣の空き地で遊んでいる所を先生に見つかって連れ戻されたという逸話があります。

その先生は、後に園長先生となり、私が寿司屋をやっていた時に(サラリーマン、寿司屋、その後カイロプラクターとなりました)食べに来て下さいました。

その時言われた言葉が、"まさか寿司屋になるとは思わなかった!" でした。

 

その後小学校に入学した時も、クラスの中でも圧倒的に背が高く、他の子を見下ろし、なんだか威張っているような子だったと記憶しています。

そして相変わらずいたずらっ子で、あまりに授業中落ち着きがないので、先生に椅子に縛られたこともありました。

それでも椅子ごと動いていたら、先生が遂に諦めて、何も言わなくなり、そうなるとこちらもつまらなくなり、大人しく授業を聞くようになりました。

 

そして3年生になると、急に他の子達に身長を追い越され始めました。

あれよあれよという間に、周りがどんどん大きくなり、

4年生の時は何とクラスで一番のチビに。整列する時一番前で腰に手を当てる立場にまで転落してしまったのでした。

 

その後、著しい成長もなく(密かに期待していたのですが)身長の伸びはずっと停滞したまま。整列する時には一番前から後ろに下がることはありませんでした。

 

そして中学生に上がる頃は、まだ140cmに満たない小さな男の子でした。

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